2012年09月20日

【れびゅう】ディア・ドクター

JCOMが今月西川美和特集をやっていて、みたかった『ディアドクター』、チャンネルnecoにてやっとみれた。
(同監督の新作映画が公開されるからのようだ。他には、『ゆれる』や『蛇イチゴ』)

deardoc.jpg

☆↑クリックすると オフィシャルサイト
けど、先にこういうの見ると、先入観に支配されるので、み終わってから見ましょう。
こういうのは、あくまでも宣伝。売れないとやっぱ困るから、宣伝。

   →続きを読む (展開を明かしているので、観てから読んで☆)
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2012年07月10日

【映画館でみた映画】ロボット完全版

robbot.jpg

 

インド映画のロボット完全版を見た。ワケわからんがベラボウに面白かった。

(現在、一部地域でまだ上映中

●併せて読みたい
Yahoo!みんなの政治-<インドの果たされなかった約束―― 成長の一方で拡大する格差>(1) | (2) | (3)

 

 

posted by sukima at 00:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | Review | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【本の感想】宇宙消失 / グレッグ・イーガン

2034年、地球の夜空から星が消えた。冥王星軌道の倍の大きさをもつ、完璧な暗黒の球体が、一瞬にして太陽系を包み込んだのだ。世界各地をパニックが襲った。球体は<バブル>と呼ばれ、その正体について様々な憶測が乱れ飛んだが、ひとつとして確実なものはない。やがて人々は日常生活をとりもどし、宇宙を失ったまま33年が過ぎた----。ある日、元警察官のニックは、匿名の依頼人からの仕事で、警戒厳重な病院から誘拐された若い女性の捜索に乗りだした。だがそれが、人類を震撼させる量子論的真実に結びつこうとは……!

この本は凄かった。自分の頭蓋内にPluggedされて直接文章が入ってくる感じ、つうか?
「これは凄い」と思って検索すると、たいがいすでにネットで凄い凄いと言われているものだけど、この本(作者)も、案の定超弩級に凄いってことで定着していた。

そも『宇宙消失』は新作というわけではなく、原文の出版年は1992年で日本での出版年は1999年とすでにして一昔二昔前であり、それを周回遅れで読んでいる自分だけど、古さなどはまったく感じない。量子力学の知識をベースにした「理系」の小説なので、完全理解とは到底いかないけれど、きわめて直感的に入ってくる内容なので、量子力学だの蓋然性だのいう言葉に怖じけづくことはそんなにない。さらに、タイトルの『宇宙消失』が原題では『Quarantine』=「隔離」だと知ったら、あーーそうかとピンと来くるものがあった。つまり、宇宙を消失した理由は隔離されたからなのだ。

読書行為としていうと、全体の2/3から3/4あたりまでは面白かったが、その後が結構くどくて「波動関数の収縮」が起きなかったら(つまり、「現実化」しなかったら)どうなるこうなると、そうならなかった他の自分についての記述が長くてだれた。が、よく考えたら、「拡散」したまま何も決定し得ずにそのまま死んでしまうというのは、比喩としてではなく、実際の多くの人生にみられる現象かもしれず、それを思うと、いかに「収縮」させんとする意志が大事かという話しにつなげようと思えばつながる。

言ってみれば自己啓発本的なロジックが編み出せそうな「量子力学」の文学化なのである。が、この本的にはそんなのは無意味だ。なぜってここでは、「脳神経再結線」によって、必要な脳神経の状態を自在に起動する事ができる通称「モッド」が、とてつもなく便利に使われているからだ。そこまで進化したナノテク技術の前では自己啓発の努力に用はない。好きな時にP1とかP2とかP3とか(確かP5まであった)を呼び出せば、あらゆる精神状態でいられる。恐怖を克服することも、退屈を感じずに警備仕事を続けることも、妻が死んだからと言って悲嘆にくれないでいることも、簡単だ。

思えば人の精神はヤワだ。人前にでれば緊張するし、うまく話せないし、自分の話しが無価値なように思えるし、人の考えていることが分からず不安になるし。小さな事で傷つくし、怖じ気づくし、いつまでも忘れられないし。人が自分よりも好かれていたり愛されていると(感じると)、嫉妬にかられるし落ち込むしひねくれるし。

それ以上に手を焼くのは、自分の様態がひとつに決まっておらず、変わる度に世界が変わり、常識が変わり、他人が変わることだろうか。実は本書を読むことはある逃避行動の一環であった。今年度に町内会の班長になったうちは、社会福祉協議会のお金を集金に行かねばならなくなっていた。(社会福祉協議会が何であるかなど検索のこと。わたしも知らなくてそうした) しかしその数日前から、班の二三人がゴミ出しルールがなっていないと怒りのメッセージを発信していた。それはそれは恐ろしいメッセージだった。

わたしはその人に会いたくなくて会いたくなくて、震えていた。
といったら大げさに感じるだろう。
事実、かなり大げさだ。
と同時に、ちっとも大げさではないのだ。それどころか、まだ話しをしたこともない、顔もよく分かっていないその人が、わたしの頭の中ではイジメの帝王のように感じられ、緊張のあまり不眠症になりかけた。

わたしはその人に会った時の状況をあらゆる角度からシミュレーションしてみた。最悪のケース。最良のケース。普通のケース。わたしは微笑んでいるべきなのか。じゃっかんおどけているべきなのか、低姿勢なのか、それとも毅然と誇り高くいるべきなのか。それとも、これ以上はないほどに、わたしはわたし「自身」でいるべきなのか。 そしてその際に、わたしは何を「望んで」いるべきなのか?

その時のわたしが、形のないまま無数に拡散している(まだ逃避の真っ最中であるから)。わたしがわたし自身の収縮すべき形を自在に操れれば良いが、そのためのモッドがない。仕方がないので自前でそれに近いイメージ作りをするしかない。が、当然向こうも同じようにしているし、向こうもまた「観測者」であるため、わたしはそれに引っ張られる。

いつもの事だけど自分の「平凡な日常」に密着した感想になった。本編の方はれっきとしたSFなので、もっと壮大な仕掛けというか、戦慄の展開というか、ひっちゃかめっちゃかなラストに向かう。それはそれはワケわからんものだ。いわゆる「愛」いわゆる「絆」いわゆる「真実」と無縁の。いわばひとつの体験としての読書といえるかもしれない。それに、ある種の励ましに近い感覚を受け取れなくもない。すると因果なことにその励ましこそが、わたしにとっての”真の≪アンサンブル≫”なんじゃないかという考えがわく。

わたしの、”真の≪アンサンブル≫”

 

 

今日の収縮とも拡散ともつかないもろもろ

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2012年03月21日

道化師の蝶 / 円城塔

何らかの固有名をあらわす円城塔という名前は以前から知っていた。知っていたが知った先がはてな上に存在する怪しげな文芸倶楽部で、それによると円城塔は大学の研究室の電子レンジの中で発見されたのが最初であるとあったから、まさか作家名とは思わず、マニアックな感興を呼び起こす、たとえば「初音みく」みたいな実在しない幻想的な何か--ITコンテンツ系の--だと思っていた。

とはいいつつ、円城塔は風変わりではあるが人名として成立しないわけではないので、実は実在している作家のペンネームではないかと疑いだしたのが比較的最近で、けれど「初音みく」に近い何かという着想を捨てるのが惜しくて、時折人の書評で円城塔という名前を見かけることがあっても、円と城と塔が出てくる小説の書評だからやたらと円と城と塔という漢字が目に付くのだろうと、無意識にか有意識にか決めていた。作家の名前とか小説のタイトルとか書評の内容より、字を追いかけるので精一杯で、どこまでいってもゴールのない徒競走、あるいはオニのいないオニごっこをオニごっこしているからで、円城塔は怒らないと思う。道化師の蝶もまた、大型旅客機に乗っている間しか面白くない小説なのだから。

でも良かった。作中にある他の小説のように、逆立ちしながらでないと読めないとか、頭痛がしている間でないと面白くないとか、三本足でケンケンしながらでないと通じないとかだと、特殊にすぎて手に取ることもかなわなかったろう。せめて大型旅客機に乗っている間しか面白くない、というのだったら(今、ほんとうにそんな意味で書いてあったのか、はなはだしく不安であると鹿爪らしく不安な最中だけど)、わたしは大型旅客機には乗ったことないとはいえ、その一歩手前のパスポートは取得済みなのだから、がぜん、近い。けっして、道化師の蝶のための条件をすべてクリアしているとは言えないけど、かなり、近い。近い、近い、近い。

そのことにわたしは密かな優越感を抱く。のだけど、いったい今どきパスポートを持っていない人がどれくらいいるというのか、わたしは、そのいるかいないか分からない(けど、いるのはいると思う)、貧しいか、臆病か、時代遅れか、抜けているか、行動力がないか、無知か、ちょっと不幸か、大いに不幸なその相手相手に優越感を抱く。力が抜けるくらいあーあな自分を発見する。新種の生き物のように。

ふうう… それは兎も角。わたしも道化師の蝶の友幸友幸を見習って(それともエンドレス氏?)、卵を産み付けよう。そしてそれに責任をもとう、最後まで育てよう。いつか孵化して脱皮して蛹になって羽化して蝶になる……かもしれないのだから。絶対とは言えないけど、それにものすごく気の遠くなる話しだけど、卵が孵化して幼虫になって脱皮して蛹になって羽化する、ことはありえることだと妄想するから。※


※孵化という言葉が本当にソレか、意味とスペルとラテン語読みと英語表記と歴史的発見の時期と賛同者と反対者を、あとで調べること




posted by sukima at 04:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | Review | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月09日

なぜ君は絶望と闘えたのか--本村洋の3300日-- / 門田隆将

あの事件の加害者側に取材した本『福田君を殺して何になる ---光市母子殺害事件の陥穽--- 』(増田美智子著)は読んでいたものの、被害者サイドの本は読んでいなかったので、今回の判決を機に読んで、やっと自分の中でバランスが取れた気がしてホッとしている。


もっと激情的に死刑を求めた本なのかと思ったら、死刑に向けて説得するような本ではなかった。いや、本村氏はじめ家族は死刑を求めているのは求めているのであるが、本来の犯罪がもたらした苦しみ以外に、いやでも死刑を求めざる得ないような事態が次々に、司法や、裁判官の態度や、弁護団のやり口によって、本村氏にもたらされてしまう。


そういった意味で、必ずしも絶対に死刑が必要な刑だと思う事はできなかった、と言うと変だが、もっと人間の行動学?なり心理学、犯罪学が発達して、もっと司法が整備され、何よりも被害者の立場、思い、権利を守ることに全力を上げる制度、というか、人的パワーが注がれるなら、死刑はなくても大丈夫なのではないかと思った。

もっとも当方、テレビ報道をいっさい見ていないので、本村氏がテレビカメラの前で激烈に怒りを表した回も、冷静を取り戻した回も、久米宏のニュースステーションに出た回も、先日死刑判決が出た時のも、見ていない。もしも見ていたら、テレビの手法に乗せられて、わたしも激烈な怒りのもと、「あんな奴は死刑以外にあり得ない、死刑死刑死刑」と思っていたかもしれない。そしてまたマスメディアがそのように誘導していったのだとしたら(といっても、多分に視聴者の欲求を満たすためかもしれないので、どっちがどうとはいえない)、そのこと自体は、本村氏にとって味方になったであろうと思われるので、マスコミの力を一概に非難する気にはなれないのであるが、それでも、その手法(マスメディアの一元化した情報に、みなでいっせいにのみこまれることで得られる一体感や憎悪の増幅・発散----トータルにいって、情緒・感情に訴えやすい一面以外は排除する姿勢)は、少しずつでも変えていかないと、「原発安全神話」に騙された時のようになってしまうと、懸念する。


犯罪者を擁護する意図ではなく、さまざまな言及の仕方はあるはずなので、その言及と思考の「工夫」が、「死刑になるような犯罪が起きないようにするにはどうしたらいいのか」(本村氏の希望)を考えていく道に通じるような気がする。


その一方、いくつか疑問が残る。

1:無期懲役の判決を受けると未成年の場合、イコール7年の刑期(と決まっている?)とは、刑を言い渡す意味があるのか? 
2:いくら死刑制度反対の弁護士だからと言って、死刑にならないためなら、何をしてもいいのか?
3:判例主義というが、殺した人数だけで判例になるのか。個々の内実は違うのに、数字合わせにこだわりすぎではないか?
4:もっと本気で被害者をサポートする仕組みはないのか。メンタル面でも法的にも。今後だって、犯罪は起きるのだ。

本書では第13章「現れた新しい敵」以降登場する安田弁護士、足立弁護士だが、彼らがいったい何をやろうとしたのか、今もってよく分からない。本書でも批判の対象であるし、『福田君を…』でもそうだ。というか、著者増田氏はじめ出版元のインシデンツと、何かをめぐって争っている模様だ。
よく分からないので、なんとも言えない。しかし、本書を読むと、随分と被害者を苦しめたのは確かだ。


☆ ☆ ☆

この本では出てこないんだろうなぁと思っていた「福田君」がエピローグ*と、「文庫版あとがき*」に出てきた。『福田君を…』で読んだ「福田君」と随分印象が違うのは、すでにして27才、29才と年をくったからか、でなければ死刑判決を受けて人格上の変化があったからだろうか。死刑支持側で描かれたこちらの方が、そうではない『福田君を殺して何になる』よりも、「福田君を殺して何になる」という気持ちにさせた。

たとえば「福田君」は弥生さん、夕夏ちゃんの冥福を祈る事があるのだが、その名前を自分が呼んでいいのかどうかと悩んでいた。その旨、本村氏に訊いてほしいと著者に依頼する。
尋ねられた本村氏も立派なのは「(「福田君」の希望を叶え面会に行くことはできないが)F君が弥生の誕生日にお祈りをしてくれていることは、素直に感謝しています。二人の名前を口にすることは大丈夫です。」
と、「福田君」にとっては望外な慈悲というか寛容を見せてくれている。

ちょっと興味をひくのは「福田君」が「(前略)その意味で、法定での私は、本当の僕ではなかったと思う。メディアの人たちの前で、僕は頭を下げたくないんです。僕は彼らのことが嫌いです。だから、本村さんにも法定で本当の僕を見てもらうことができませんでした」と、ある意味共感をさそうようなことも言っている。(文庫版あとがきp.330)

戸惑うのは、最近の新聞記事13年目の判決:光市母子殺害事件 元少年、揺れる胸中 「厳刑望む」「死刑には反対」(毎日新聞 2012年2月19日 東京朝刊)の中の「福田君」と比べ、随分とちゃんとした人格に見えることだ。門田氏は読者に通じやすいように、言った内容を整理し脚色しているのだろうか?

☆ ☆ ☆

当方裁判制度に詳しくないのだが、もう裁判はないのだろう。
あとは死刑の執行を待つだけ、ということだろうか…


---
*本書の単行本は2008年6月出版なのでエピローグは2008年に、文庫版あとがきは2010年7月に書かれている


posted by sukima at 01:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | Review | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

wild flower

 2月8日リリース12枚目のアルバムBUTTERFLYの8曲目wild flowerを聴いていて、続きを読むをクリックするよりタイトルをクリックした方が表示がきれいです・・・・↑
タグ:Wild flower
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2012年02月23日

ヒミズ

映画を見る前に、予備知識を仕入れないよう気をつけている。

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posted by sukima at 00:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | Review | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 

 

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