2009年01月16日

ハケンについて、ナカマについて☆part5

産経新聞みたいな記事

特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか  家・    さん(毎日新聞)

 翻って、今の日本はどうなのか。「自分の努力が足りない、怠けているのをさておいて、親が悪い、先生が悪い、社会が悪いと、責任を押しつけてばかりいる。己を顧みることを忘れているわけですね。これをどうしたらいいか。やはり物心がつくかつかないかぐらいの小さいときからの教え、しつけが非常に大切だと思うんですよ」


ブログランキング」で人気上位「非国民通信」が、毎日新聞のくせにまるで産経新聞のようであると、上記記事を引用。いろいろと興味深い論評を加えている。伏字にしているのは「非国民通信」の真似で、ヒントは「作家・曽野綾子」ではない誰か。

答えは平山郁夫で、思うに、この方が「あの頃はよかった」的に語る時代は、それなりに「平等」だったのではないだろうか。

平山氏が言うように、この時代はとんでもないどん底で、その時代を皆が懸命に生きていた。
日本の資本主義経済の本格的な始まりがいつなのか、この「戦後」なのか、それとも明治維新の頃なのか不勉強にして不明であるが、どちらにしても、日本の資本主義経済の黎明期においては、ほとんど多くの人が平等にスタート地点に立っていたのではないだろうか?

今、大企業のキャノンやトヨタだって、おそらくは創業者が知恵者で、とんでもない才覚を発揮して会社を発展させた。
政治家にしても、良し悪しはともかく、裸一貫に近い場所から、おのれの才覚でのし上がっていったに違いない。

これもまた「格差」といってしまえば「格差」で、それだけ頑張り、才能やアイデアに恵まれ、力を発揮できる体力、精神力、知力をもち、なおかつ努力をし、運にも恵まれた。これらは、当人の努力だから、とだけで片付けられない不平等な面も多くあった。つまり、かなりのところ遺伝子レベルで決定されているようなことなのだ。

けれど、この時代の人々は、それを「不平等」とは思わなかった。
今思えばある意味立派に「不平等」であり、つまり「格差」は最初からあったのだけど、当時はそうは思っていない。
「あいつはすごいやつだ」と、おそらくは思っていたと、思われる。
そして、事実、すごいやつなのだ。
そのすごさは、さまざまな形で、さほどすごくない人へも利益をもたらし還元されたので、だから「不平等」だと思わなかった、という面もある。
が、やはり、すごいやつはすごいからすごいと思われていたってことだ。

だから、誰も不平等とか、格差社会とか言わなかったし、親が悪い、先生が悪い、社会が悪いとも、言っていない。

ところが、そのすごい人たちの頑張りがもたらしたダブツキというようなものが、まったくすごくない、凡庸な人たちを上の場所に押し上げ、そのまま居座らせている。その典型が、あほあほ総理の安倍晋三だったわけであるが、彼だけで終るかと思いきや、ぞくぞくと同じ現象が総理大臣の座に起き続けている。

経済界にしてもそうだろう。よく知らないけど、キャノンの社長なんかは、すごい人の甥だか親戚だかってだけであの地位にいるらしい。
実際顔を見ても、たいして才覚はなさそうで、保身だけって感じであり、自社製品への理解やビジョンすらあるのかどうだか怪しいし、そこから派生するはずの従業員への理解やビジョンもまるでない雰囲気が漂っている。

そんなこんなで、今の時代、議員はほとんど世襲。
経済界の人間も、なかには裸一貫スタート組もいるのだろうけど、大企業の場合はみな凡庸なくせに地位だけは高く握った金はテコでも離さない人たちばかりなのではないだろうか。
こういうのも一種のバブルといえる。人間バブルだ。

人間バブルは、どうやったらはじけるのか。
即座に戦争とか言われると困ってしまうが、なにか方法はないのだろうか。
思いつくのは、デジカメを買わない、車買わない、であるが、人間バブルな人たちは、まず真っ先に自分らの保身を行い、従業員を切り捨てるというやり方みたいだから、分がいいとは言えない。

それとも、はじける以外の何か方法があるのだろうか。


そんなで、トータルにいえるのは、毎日新聞もワイド版を使って思いつきの記事を載せるのはヤメレって話だ。
ちゃんと考えてから載せなって。
新聞社の人も泡沫なのかも、だけど。


※すみませんが、バブルの使い方間違っていたら適当に直しておいてください。頭ン中であせあせ(飛び散る汗)
タグ:バブル
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2008年11月15日

ハケンについて、ナカマについて☆part4

最近変なニュースばかりで気分が悪いので具体的に書く気がしない

もともと「変なニュース」を取り上げ、同時に日本マスコミの腐れぶりを弾劾してきたtakaokunさんが気分が悪くなるくらいに「変なニュース」とは。
いったいそれはどんなニュースなのか。

と思ったらこれは確かに変。

逮捕男性「警察に押し倒された」 首相私邸見学ツアー

2008年11月13日(木) 共同通信社

 麻生太郎首相の私邸に向けて無許可デモをしたなどとして、東京都公安条例違反容疑などで警視庁に現行犯逮捕された3人のうち、会社員の男性(27)ら2人が13日、国会内で記者会見し「気付いたら警察官に押し倒されていた。強引なことをされた」と不当性を訴えた。

 男性らが逮捕されたのは、10月26日の「麻生首相のお宅拝見」ツアーに参加した際。男性は「警察が襲いかかってくるとは思わなかった」と話し、公務執行妨害容疑で逮捕された30代の男性も「気が付いたら捕まっていた」と述べた。3人は今月6日に処分保留のまま釈放された。

麻生首相宅見学ツアー:フリーター労組ら「暴行しておらず不法逮捕」と会見 /東京

2008年10月28日

 麻生太郎首相の自宅見学ツアーを行っていた若者3人が都公安条例違反(無届け集会)、公務執行妨害容疑で逮捕された事件で、ツアーを企画したフリーター全般労組(清水直子委員長)などは27日、都内で会見を開き「暴行はしておらず不当逮捕だ」と訴えた。

 会見では、主催者側が撮影した逮捕時の映像を上映し、警察が発表した逮捕者が暴行した事実がなかったことやデモや集会ではなかったことを説明した。

 清水委員長は「拡声機も使わず、肉声で話をしながら麻生宅に向かっただけ。事前にデモではないと、警察の了解も得ており逮捕は不当だ。首相の豪邸を見て、格差と貧困をリアルに実感することが目的だった」と話した。逮捕された3人は全員フリーターだという。

 ツアーに参加していた作家の雨宮処凛さんは「ワーキングプアの自分らの状況に異議を申し立てただけで、逮捕されるとは信じられない」と述べた。【東海林智】

〔都内版〕

毎日新聞 2008年10月28日 地方版


これは11月5日に当シーサーブログでもちょっと取り上げた、26日の渋谷で起きた麻生邸見学歩行の一件だ。

この件は、雨宮氏のブログにも成り行きが書いてある。

「権力」が、今までカメレオンのように色彩を背景に似せていたものが、ここへきて色鮮やかにグオンと前景に見えてきた気がする。

そういえば、つい先日池袋に行ったら、路上で音楽をやっている2人組に警察が関わって、表情こそ笑顔で友好的だけど警察が声をかけたらそれは「尋問」みたいなものであるから、その2人組と、そのまた隣にいた2人組みは「やばい」とばかり音楽の道具をたたんでしまった。

路上でパフォーマンスすることもダメなのか。
どうしてダメなのか。
路上のパフォーマンスを楽しむ自由は日本国にはないのか。
腹立たしい。

日本にほんとうの自由と豊かな文化を根付かせるための具体的な政策

自由市場経済は多数決原理で動いています。

たくさんの人間に価値を評価されないと、なかなかお金を得られません。

そして単純な多数決原理だと、通にしか分からないような

繊細な日本語文章を生み出せる可能性のある文化の担い手には

じゅうぶんなお金が回らず、

彼らは収入を確保するために走り回るワーキングプア状態になりかねず、

実質的に文化を創造する自由を奪われてしまうのです。


弱肉強食を生き抜き、自由市場経済の中、多を勝ち取ってお金をたくさん得る。
そういう生き方を好む人や、適性のある人はそれでいいとしても、そんな人ばかりではないうえに、第一、そのような生き方の人間では到達しえない境地というのがありそうだ。
ここの例でいう「繊細な味付けの料理人」もしくは「ゴロツキ」など。

やはり、何より懸念するのは、「じゅうぶんなお金が回らず、収入を確保するために走り回るワーキングプア」となり、他のことが何もできず、若者らの命が削られていくことだ。

本当なら、旅行をしたいとか家を持ちたいなどの理由でものすごく金をたくさん得たい人が休み少なく働き、そうでない人は、最低限の労働時間で最低限暮らせるだけの金を得、確保した時間で文化活動なりなんなりをする。という状態が望ましい。


やや話は逸れるが、学校教育の中に何が抜けているかといって、「税金教育」「年金教育」がまるでない。
きちんと教えないから、大人になってもその重要性が分らず、なんとか払わずにすまそうと考えるか、税金を払うのを損だと感じるようになる。
いったい、このことによってどんなデメリットがあるかというと、「社会の一員として自覚がもてない」のは言うに及ばす、そこから派生して「政治への無関心」へといたり、税金がどう使われているのか監視するのを怠り、政治家や官僚の不正に対しても怒ることができず、結果自分達が暮らしづらい世の中にしてしまう。
そればかりではない。
税金は、払わないですむということはないため、また、膨大な利子がつくため、少し滞納していると絶望的なまでの高額になっていき、それが毎年毎年累々とつもり、とんでもない額になる。

こうやって、その人は、国および自治体によって脅迫されつづける人生に堕ちていく。

どうしてくれるんだ? 

知り合いの2ちゃんねらーのトモミにそのことを言うと
「日教組の陰謀だよ。日教組は革命のことしか教えなかったからさ!!」
などとのたまっていた。まったく2ちゃんねらー(とくにトモミ)は二言目には日教組である。

わたしは日教組について未調査段階なのでよくわからない。
ただわたしのカンではそういうことではないと思う。

教育の世界では、子どもは大きくなったらどっちにしろ会社員か公務員になる。なれば税金も年金も天引きであるから、わざわざ教える必要はないと思っているのだ。

そこが間違っている。

会社員にならず、自由業、自営業になろうとも、納税はしなければならない。
ということを、ちゃんと教えるべきなのだ。
このことは逆に言えば、自由業、自営業という生き方もひとつの立派な生き方であることを、間接的に教えることにつながる。それが大事だ。

そのことが、非正規雇用もひとつの生き方であると認めることにつながるかと思う。
正社員ばかりが納税するわけではなく、正社員ばかりが認められていいわけではないのだ。


ところで、分裂勘違い氏の言うことには若干のムリがある。

ワーキングプアにならずにすんだ若者が文化活動を行えたとしても、「日本文化の担い手」になれるとは限らない、ということだ。
つまり、繊細な味付けの料理を作る優れた料理人になれるのは、ほんのひと握りしかいない。
繊細な味付けの優れた料亭の料理は、多数派には理解できないとしても、優れた味覚の持ち主には理解され賞味されるので、単価を上げていけばいいしステイタスも発生するので、それなりにうまく回転する。

しかし、多くの料理人志望は、そういう味には到達しない。
煮ても焼いても喰えない味の料理ばっか。
「もうやめな料理なんて。別にマックでいいよ。マック美味しいじゃん?」と説得しても聞き入れない。


POSSE--POSSEは、労働相談を中心に、若者の「働くこと」に関する様々な問題に取り組むNPOです。

ポッセは、なんか頼もしい。うれしい。

けど、なんか難しすぎる気もするけど、大丈夫だろうか。

POSSEという雑誌も、ハイレベルすぎて肝心のワーキングプアが読むのかが不安になる。
それ以前にわたしが読めるのか不安になる。

ワーキングプアの反対は、ワーキングリッチでありこそすれ、ワーキングインテリジェントではないのではないだろうか。

アンチ富裕層的になることで、金よりも価値のある知性というもので勝負している印象があるわけであるが。
むろんわたしは結婚相手としてなら、富裕層の馬鹿と、ド貧乏の知性あふれるイケメンだったら、後者を選ぶわけであるが。(イケメンは余計)



---->>>>>>>この項、続く
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2008年09月24日

ハケンについて、ナカマについて☆part3

前回の7/29と8/1に、物と物でつながる人間関係について批判っぽく書いた。


けど、批判だけだととても不十分な上に、昨今の状況は複雑なので、仲間・交友・コミュニティ・人とのつながり・友人関係とからめて追加する。といってもうまく説明できないので箇条書き

  • 1:物の持つ賄賂的要素に敏感になりすぎ、贈りたい気持ちにセーブがかかり人間関係を作ることが難しくなった
  • 2:日本的な古いルールと、西洋的な贈答感覚が混ざり混乱。たとえば「出産祝い」をフランクに贈ったつもりで「半返し」が来るなど
  • 3:携帯電話のメールの普及により、誰と誰がどの程度親しいのか一目瞭然でなくなった
  • 4:携帯電話の普及により、まださほど親しくないうちに、携帯メールという密室的関係を始めることになりやすい
  • 5:人と親しくなる場として酒席があるが、日本人には飲めない人が多い。飲める人と飲めない人が混在する席では前者は後者に借りを作りやすい(もしくは、後者は無理やり同席させられ不満をもつ)
  • 6:個人情報保護法により、子どものクラスの連絡網に、クラスメイトの住所が載っていないため、親しくなりたいと思った相手にも年賀状などを出せなくなった
  • 7:信頼できる公の人間が誰もいなくなり、教師は制度的に1年単位で交代。人間関係、信頼関係を築くのがさらに難しくなった

などなどなど。項目によってはまるで無縁な人もいるだろうし、個人的な愚痴でもありつつ、思いついただけ挙げた。
昔のように共同体ルールでベタベタしていたのも重苦しかったが、これはこれでみょうに孤独な状況と言えないだろうか?

説明すると、「半返し」には参った。親戚関係のような儀礼で贈った物への半返しならともかく、親しい友達のつもりの相手にやられると、お返しのことばかり考えるのやめてよねと思ってしまう。マナーやしきたりの本に書いてあっただけなんだろうけど。
 携帯メールも実に面倒なので、ひところのような熱気はなくなった。特に絵文字を豊富に入れないと「怒っているのか」と思われるらしいので、絵文字の選択に時間かかりすぎ。絵文字を使ってフレンドリーな気持ちを表さないと×なのだ。ちなみに一瞬買おうかと思ったiPhoneは絵文字が使えないため頓挫。(ていうか、絵文字なんか入れたくなければ入れなくていいはずなんだけど)
 酒に関することは我ながら痛すぎて話題にしたくない。飲む量の多い人間は、そうでない人に借りばかり作ることになるので、最初から人と飲みに行かない、という選択肢もあり。ここらへん、イギリス人が全員酒好きで何かといえばパブでくだを巻いてストレス発散しているのと、様相がかなり違う。借りを作った相手が、馴れ合い的に仲間っぽい相手ならいいが、ぜんぜんそうでないことの方が多いので、要注意だ。

こう考えると、以前は一部の芸術家肌や知識人や変人だけがなっていた個人主義者に、今はみんながなってしまったのかもしれない。わたし自身かなり個人主義者のつもりでいたのであるが、みながみななってしまうと、このままでいいのか不安になってくる。
西欧の本場の個人主義がどんなものかよく分らないが、日本型個人主義が普及、他者との関係が取りづらくなった。しかしだからといって完全に他人と交流なくして生きられるものでもない。孤独感や不安な気持ちになりやすくなる。交流の場やコミュニティが必要かなと思う。

以前ニートについてで「仲間感覚を基本とした社会を形成するための感情教育(それを国家が支援する)」について考えた。教育現場で具体的に何が出来るかという課題が残って途方に暮れたわけだが、多分、親が地域や学校活動のコミュニティに参加する(義務感ばかりではなくある程度楽しい気持ちをもって)のでないと、いくら子どもに教育しようとしてもムリっぽい気はする。でもってそれが一番、大変というか、今日PTAが行き詰まっている点で、ここらは私立の学校ならばそんなことはないのだろうから、公立学校ならではの、苦しい点かなぁ。


------------------>>>>>続いたら続く

  家族みんなでピクニックやお子様の運動会、お友達とのキャンプやバーベキューの下ごしらえを入れて、ワイワイ盛り上りたい♪..



posted by sukima at 15:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 助け合う社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月01日

ハケンについて、ナカマについて☆part2

わたしはほぼ毎日買い物をするから、前回のをupしてから数回スーパーに行っていて、そのたび目に止まるのが「お中元」の山積みで、横を通るたび「贈答文化批判なんていう無益でムダなことを考えたものだ」と思い、「ええええあたしが一人勝手に変わりモンってことでいいですよっ」という心情になり、世捨て人気分になっていった。

実のところわたしんちなどは会社員ではないから、もとから中元歳暮とは無縁なので別にいいのであるが、例えば、細木数子がテレビ番組で「ご近所づきあいが大事」と言うと速攻翌日に、一面識も無い隣の隣の隣の住人がスイカを持って来たりする。そういうのは違うのではないか、という話で、やりたい人たちの中元のやり取りにまで文句を言う気は無い。それにこういうのは地方によっても違うだろうから一概に言えない。

なんにしろ、「自分で選んだ道なのだから文句はいえない。悪いのは自分」といわゆる自己責任と捉えてしまうことが、派遣の問題が解決しない要因となっているらしい(あくまで一要因)。といっても、どんな状況下でも自分を保とうとするのは当然なので、それはごく自然な心理だろうと思うのである。しかしもし、自分次元を離れより広い視野から解決を図るなら、やはりそれなりに仲間というか、つながりが必要なのではないだろうか。その時に、仲間向けに別の自分を作らなくてはならないならそんなものは仲間ではないので、コミュニティが億劫になる要因は排されていてほしいと、素朴に思ったわけなのである。


しかし、暑苦しい中あえて言及する気力も沸かないが、この文藝春秋8月号の特集「批判の嵐にさらされる東宮一家。孤立無援の両殿下は今、何をなすべきか――皇太子、雅子妃 両殿下への手紙」を読むと、もう日本は完璧終っている。いや、少なくとも日本の一部は終っているとしか思えない。

■友納尚子
この方は、皇太子、雅子妃 両殿下がここまでどういう経緯をたどったか、ああなってそうなってこうなったと、女性週刊誌を読み損ねた人向けマメ知識伝授。

■猪瀬直樹
やたらと物知りだけど、焦点が四次元。

■斎藤 環(セイシン科医)「医師の病状説明が雅子妃を守る」
一番実際的で意味のあることを書いているのは、この人じゃん? p.115
しかし、座談会でも指摘があったが、高松宮ですら成人して宮中祭祀に接したとき、唯物論的な教育を受けてきた者として違和感を感じたと書き残している。まして戦後の近代人である雅子妃には、祭祀の実態の不条理さに、言い知れぬ違和感があったのでは、と私は思う。実際、高等教育を受けた女性には、夫の先祖供養を強要されてトラウマになるケースがある。
 (中略)ならば皇位継承が男子に限られている以上、祭祀も男子の務めとして、妃は免除しても本質的に差し障りないのではないか。そもそも、祭祀の深奥をよく知る日本人などほとんどいないにもかかわらず、昨今の、出席ばかりを居丈高に強要する風潮は疑問である。

深奥どころか、表面的なことすらまったく知らないわけで、そこを教えてよ言いたけど、誰も教えてくれない。
もしもその儀式が、(『古事記』『日本書紀』にもとづいて天皇は稲作の神とされているから)、米の豊作を祈る内容なのだとしたら、そんな儀式と、米の収穫量に相関関係はないのだから、そういう儀式が受け継がれてきましたよ、ということを伝える役回りだけにして、祭祀として行うような非科学的なことはやめていいのではないだろうか。それだと、農業従事者の人が怒るのだろうか??

あと、祭祀の内容が、もしも日本の安全ということで、たとえば地震が起きませんように、みたいな祈願をするのだとしたら(あてずっぽう)、地震の発生と祈願は関係ないし、事実あちこちで起きているのだし、ことに皇居のある首都東京を中心に祈願をしているのだとしても、地震は起きるときは起きるのだから、そういう非科学的なことはやめた方がいいのではないだろうか。第一、昔ならともかく、今はそんなことをやってくれていても、国民の誰も感謝しない、つーか戸惑うだけ。もしも知ったら「…………(絶句)今までありがとうございました。今後はお願いですから中止してもっと楽にやってください」と、ほとんどの日本人は言うだろう。

■茂木健一郎
脳天気なことを言わせたら日本一な脳科学者茂木先生なだけあって、自分と同世代であることとか自分と同じ東大であることとか、自分と同じ『ワルキューレ』とか『ドイツオペラ』がどうのと言い募って親近感を示している。その上で、日本の皇室を英国王室型の超エリート的な位置付けにすることで、励ましの代わりにしている印象で、それはそれでいいのであるが、そうやってせっかく「世界を見てきた」雅子サマなのに、時代錯誤の宮中祭祀では、かえって悲しくなるだけだ。
 歴史は最終的には公平である。平成の皇室において皇太子殿下と雅子さまが果たしている役割の本質は、時の流れという恵みを受けることで、必ず明らかになる。

それはそうこの方が思っているだけ。そんなノンキなことを言っている間に、雅子さまのみならず、「特筆すべき精神の強度をもった皇太子」(by斎藤先生)だって、ダブルバインドのあげく、どう壊れるか分らないのだ。せいしんのブレは、若いときだけではなく、中年以後や老年でも多く発症するのだ。

■福田和也
恵まれぬ人、苦しむ者の側に

何よりも国民の、心の、支えになっていただきたい

マジめまいがした。適応障害、もしくはウツ、少なくとも心の病にかかっている人に何かを要求するとは…!!がーん。ウツの人に「頑張って」の類が禁句なのは、今や一般常識だろう? 人にああしろこうしろではなく、「自分が『恵まれぬ人、苦しむ者』の側に立って助けます、その自分の心の支柱になってください、いえ、そのために何もなさらずともいいのです、そのままでいいのです」という話ならまだ分るが、自分はまったく『恵まれぬ人、苦しむ者』を助けようという気はないのである(少なくとも一言もその気配を書いていない)。それじゃあ、「自分はどんどん強者としてなぎ倒していくので、彼らのケアをよろしく」としか聞こえない。

こんな風に、都合の悪いものを人(特に皇室)に押し付ける習慣は何とかならないのか。ほとんど読みながら涙目になってきた。この福田氏の文章には多く傍線が引いてある。寄贈者の共感をずいぶん呼んだらしい。
恵まれぬ人、苦しむ者を助ける力は、オノレの中に充分にあるのだ。自分がガンバレ


関係のない話に行き過ぎたので、次回はまた本題にもどる


------>>>>>>>>>つづく

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2008年07月29日

ハケンについて、ナカマについて☆part1

少し前「ニートについて」で、社会の包摂性について「hatenaダイアリのキーワード」だの何だのと横滑りしつつ考えたわけであるが、派遣についても、やはり社会の包摂性とその前提である仲間感覚および仲間の存在と絡めて考えられそうなので、できるところまでやってみる。

≪ソース≫

☆1:文藝春秋8月号
 ■社会保障費一兆一千億円カットの衝撃
 貧困大国ニッポン ―ホワイトカラーも没落する
 もう限界だ。※このままでは社会の土台が崩れる※ 湯浅 誠
☆2:マル激トーク・オン・ディマンド 第378回(2008年06月28日)
 ■死ぬか殺すかまで若者を追いつめる労働現場の現実とは
 ゲスト:雨宮処凛氏(作家)
☆3:日テレ2008年7月18日放送分「私が総理大臣だったら」提出者:サンドウィッチマン
 ■1年間バイトやハケンを続けた人は正社員にします
☆4:派遣労働は労働者の権利と労働組合そのものを壊していく
☆5:書評(労働・フリーター・ニート)
☆6:国家・市場・家族の失敗

≪要旨≫

1:「仲間」は育つのか? もし育てるのならば、「仲間」もしくはコミュニティを育てる際の障壁とわたしが考える「贈答文化」について
2:逆に、仲間もしくは日本社会を去り、より個人化する方向についても考える

先週職場に行ったら☆1の文藝春秋8月号が置いてあって、誰かが「ぜひ読んでくれ」と置いて行ったとのこと。見るとこの号の特集が「批判の嵐にさらされる東宮一家。孤立無援の両殿下は今、何をなすべきか――」というもので、寄贈主が「ぜひ読んでくれ」と思ったのはこの部分なのだろう、傍線が多く引いてあるのだった。それで職場の誰かが読んだのかどうかは不明ながら、長く放置されていた挙句「シュレッダー行き」のカゴに移動となっていたため慌てて「もったいないじゃんよ!!700円もする雑誌の最新号!!」と内心叫びつつパクって来たわけであるが、帰って読んだら渦中の話題「派遣」について書いてあった。

ネットで見たら記事を書いた湯浅氏はすでにかなり活躍している方のようで、氏は「働く貧困層」に関して具体的で実際的な活動として「反貧困たすけあいネットワークを主催している「カンパ」。これにはもう本当に救われた気分に(このパターンが多いが)なったのだった。といっても、記事本文を読めば分るとおり、ことは根深く構造的なものであるから、カンパをすれば解決というものではなく、政治や政策レベルで根本的に考えないとダメだ。

記事の内容は、
「ホワイトカラーに迫る穴」「勝ち組みなどどこにもいない」「小泉改革で『底辺への競争』激化」「『再チャレンジ』の嘘」「日本型経営も崩壊する」「『気づけない貧困』が足元に」の6部分から成る。詳しくは本文を読んでいただくとして、数字として

 ◇生保受給者=1995年に88万人だったのが155万人
 ◇貯蓄ゼロ世帯=2000年の12.4%から2006年には22.9%
 ◇非正規雇用=現在33.5%

 ◇日本の社会保障は非常に薄い。2003年の調査では、GDPに占める社会保障給付費の割合は、17.7%、EUの平均26%を大きく下回っている。ちなみに主な国を参照すれば、フランス28.7、ドイツ27.3、イギリスが20.1で、アメリカ16.2である。EUの水準と比べると、43兆円も少ない。

と挙がっている。アメリカが日本より低いことの解説はちょっとしかなかったが、「社会主義国のようになるのがイヤだから」という理由で健康保険制度を充実させたがらない(via:シッコ)のと同じ理屈かと思われる。こういうデータがあるから日本の自民党とか官僚?とかも真似しているつもりなのかもしれず、本当にはた迷惑なアメリカであるが、アメリカと日本はその精神性に違いが大いにあると思われ、少なくともアメリカは「自由だぜ」と思っていると思われるが、日本人はさして自由という楽しさや開放感を得ている感じではない。これで「アメリカだって低いのだから」と言われたらかなり困る。

記事の中でただひとつ違和感があるのは、「企業、家族、地域社会によるセーフティネットが働かなくなった」(というか破壊された)ことが繰り返し問題視、悲劇視されている点だ。まったくもってその通りだとは思うが、企業、家族、地域社会によるセーフティネット(宮台氏が言うところの「社会の包摂性」かと思われる)が、それほど良いところばかりだったとは思えないのだ。色々な考え方があり感じ方がある(あった)だろうし、時代によって違い、たとえば70年代生まれだったらそもそも社会に包摂性があったことすら知らないかもしれないし、50年代生まれなら、その古き良き面をよく知っているのかもしれない。けど、わたし(62年生まれ)にとっては、個人を鋳型にはめる抑圧者としての面が大きいのだ。ことに「企業、地域社会」は独特の儀礼作法を持っていることが多く、何かというと贈答品のやり取りをするのであるが、物を贈る行為が純然たる好意であるならともかく、要するに何らかの取引、政治(と化しやすいもの)であり、実に見えにくいルールにのっとっていて、結果として、贈られてそのままにしておくとひたすら負債を背負った形となるため、何かを贈り返さねばならないわけであるが、そのルールにうまく乗れないと心理的な負担はとてつもなく大きくなる。

実際問題、このせいで精神に負荷がかかりすぎて病んでしまう人って多いのじゃないかとわたしは勘ぐっている。(「近所の人がうわさをしている」というタイプの幻聴や妄想はとても多い)

ちょっと変な引っ張りながら面白いデータをみつけた。
ニューヨーク・タイムズの記事検索からビジネスのヒントを得る」というもので、アメリカ人のgiftに関連した行動形態を検索から導き出したものだ。それによると、アメリカ人がもっとも贈り物をする相手は子どもであり、物としては本である事が多く、時期はクリスマスだ。日本では交際中の男性からプレゼントを貰うのを当たり前と考える風土があるが、アメリカ人はガールフレンドにもさほどプレゼントはしない。

また、先日レビュウを書いた『暴力はどこからきたか』の最後の方に書いてあったピグミー族の狩猟で獲物を持ち帰る際の作法はスバラシイもので、獲物は広場にソッと置かれるので、誰がしとめたか分らないようになっている。このことは、獲物をとって仲間に分け与えることが、感謝を(本人にその気がなくても)強要し、仲間の抑圧者になってしまうことを回避するための知恵だろう。
獲物を持ち帰った英雄になることは、その時はよくても長期的にみれば、嫉妬や劣等感の温床になるし、政治に利用された挙句に人間関係を腐敗させるし、何もいいことがないことを、知り抜いた挙句の知恵だろう。たぶんそれに、一番大事なことを、「皆で食べ物を分け合い一緒に食べる」、という一点に絞っているのだ。


.........................................>>>>つづく
(この続きは後日)

※から※の部分、雑誌では「このままでは日本型経営も崩壊する」となっている。(ネットのオフィと違う)
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