転々

転々『時効警察』、『帰ってきた時効警察』と愛好して来た流れもあり、観に行った。
定刻より遅れぎみに行ったため、すでに予告編は終わり、本編が始まっていた。
椅子に座ったらすぐに、靴下を口に押し込まれるオダギリ・ジョー(文哉)の顔をみることになったのだ。
その暴力沙汰や口の中の靴下もそうだが、それ以上に軽いショックを受けたのは、文哉の部屋のあまりの汚さだった。


汚さごときに普段はひるむわたしではないのだが、その日は用事があって、映画館の近くのホテルに宿泊していた。
ホテルといっても、ラブホではなく、したがって用事も色っぽいものではなく、いたって真面目な用事で真面目なホテルに泊まっていた。


ホテルというのは普段結婚式くらいしか行かないものであるが、着ていく服やレストランでの立ち居振舞いなど、目に見えない決まりごとがあり、それなりの正装を要求するものであり、さらにホテル同士も「格」でランク差を付けるなど、社会の格差拡大に余念のない文化施設である。
それでもホテルには、普段の生活、日々の暮らしから離れる効果があり、これを居心地がよいと味を占めたらホテル愛好家になる可能性はある。無論、あくまでも経済に余力がある場合に限り、ホテルほど不経済なものはなく、不経済度が高ければ高いほど、「格」が上だったりする。


わたし自身、映画のわずか1時間前にチェックインしたばかりであったのに、浮世を離れすっかりホテルモードに(はずかしくも)なっていたため、文哉のアパートを見た時は、頭をガンと殴られ、目を覚まされる思いだったのである。


ホテルは上層(「格」なる虚飾の上位)を目指すのに対し、文哉と福原(三浦友和)が東京の町を散歩するのは、上や下ではなく、広がりがあるなぁと思った。
オダギリ・ジョーのファッションや髪型はとてもうまく、(日本)社会の上にも下にもどこにもいないような、無国籍無階級的人物の造形に貢献している。それでいて、こだわりが何もないわけではないのは、福原にスニーカーについて聞かれ「ダサいですよーー」と感想を述べているのを見ても、いたって自覚のある人らしいと、思わせるのである。
ファッションに関しては、キョンキョンもふせえりも(広田レオナも)とても良くて、真似したい!とつくづく思った。それはその日ホテルに行くからと(それなりにとはいえ)真面目でネの張る服を着てしまった自分への軽い憎悪もあった。彼女達はこなれていて似合っていて(しかもどちらも結構トシはいっているのに)、経済だけで推し量れないものを、感じさせた。これは、キョンキョンの古いながらも清潔な家についてもいえるだろう。わたしなどすぐさま影響を受け、翌日は東急ハンズで、キョンキョンの台所を再現できないかと、色々物色していた。それくらいステキな暮らしなのだ。残念ながらああいう花柄の壁紙は置いていなかったため、鍋蓋の取っ手を買うにとどまった。取っ手は、ほんとうに長い間、取れたままにしておいたものだ。


三浦友和が出ていることは、『転々』を観る動機のひとつになった。
その少し前に、朝日コムのインタビューを読んで、三浦友和がみたくなっていたからだ。
1980年に引退・結婚する時、山口百恵は「普通の家庭を築きたい」と言っていた。山口百恵のそういう夢に対して、わたしは理解をもつことはできなかった。普通の家庭よりも、歌手の方がいいだろうと、思った。華やかであり、有名人であり、能力をいかせるのだし、実際百恵の歌のファンはものすごく多かったし、わたしもそうだ。それに比べて家庭など、どんな平凡な無能な人間でも持てる、ありふれた、つまらない、どうでもいいものに思えた。しかもふたりは芸能人、結婚したってすぐに離婚するに決まっている。
そんな無理解なマイナス期待は、わたしだけでなく大勢が持っていたに違いない。ところが、ふたりはその通りにはならなかった。ふたりの間には子供が二人いて、どちらももう社会人になっているという。親のコネとか関係なく、会社員になったと聞いた。インタビューを読んで、ふたりの間に流れた、ひたすら「普通の家庭」を築いてきた27年という歳月を思った。これはもうどんな天才とも比肩しうる凄さではないか。その凄さを思うとなぜか感動が止まらない。こんな感動もありなのだろうか。と同時に、自分の身の上にもやはり27年という歳月が流れたのだと思うと呆然としてしまった。
百恵の引退は、とても記憶に鮮やかで、ごく最近のことのように思えるのに。


だからといって『転々』を観ている間、百恵さんのことが浮かんだなんてことはなく、普通に観た。わたしには三浦友和の演技が名演なのかどうなのかは分らない。きっとそんなのはどちらでもよくて、あとで思い出した時に、なんかあの人やたら歩いていたなぁ…とか、『亡き王女のためのパヴァーヌ』が好きだったなぁとか淡々と思い出しそうな気がする。


散歩するだけ(でも別に良かったのだが)の映画かと思ったら、擬似家族も出て来た。
三浦、キョンキョン、オダギリ、ふふみ(吉高由里子)で父、母、息子、娘のようになるのだ。キョンキョンの二の腕の肉の付き方はそういう役が似合っていて良い。
ふふみは、最近の風潮の女の子らしく、風変わりなエピソードを多くもつ者こそ覇者という、エピソード至上主義を生きる女子である。というのも、時代はもはやストーリーを生み出せないからである。その代わり断片的なエピソードの価値が急上昇し、より多くの変わったエピソードをもつ者がなにかと有利になり優遇される時代。そしてそういうエピソードを多く生産するには、自分が変わった人間になることが一番手っ取り早いため、どんどんヘンテコリンな女子になっていくのである。
少なくとも、わたしは周囲を見ていてそう感じている。
人によっては「教育力の低下」とか、そういうことを言うのかもーではあるが。


オダギリは「親に捨てられた」子供、というキャラを紋切り型に持ち出してくるのであるが、その立場の者らしい影は見当たらず、トラウマストーリーの悲劇の主人公にはなっていない。しかしそうはいっても「親に捨てられ」て、悲しくないわけがない。これが悲しくなかったら悲しいという言葉などなくていいだろう。だからわたしには、文哉の内側に悲しみの表面張力がみなぎって見える。
けど、目の錯覚かな? とも思う。


文哉が寝そうになって寝なかった女性って、福原の奥さんの化粧した姿なのかどうなのか気になる。
わたしの場合、人の顔の見分けがつかなくなるので、よけいに。
でも思い直して、それはどちらでもいいことなんだなと結論した。
このエピソード自体はありふれたもので、どこにでも転がっていることなのだし。


それで思い出したけど、「岸辺一徳はラブシーンなんかやらないわよ」と、仙台(ふせえり)が確信をもって、熊本、ではなくて店長(岩松了)らに言うシーンがあるけれど、先日わたしはケーブルテレビで岸辺一徳の熱烈なラブシーンを観ていたため、「やるもんね岸辺一徳だって!」と、実に誇らしい気分になった(『いつか読書する日』)。しかも相手は田中裕子であるから、れっきとした主役級のラブシーンである。もっとも、どうして恋愛成就のあと岸辺一徳が死んでしまったのか納得がいかなかった。まさか起承転結の「結」ために死んだのであろうか…?(ビデオテープ切れで最後は見ていないので結論が出ない)


岸辺一徳さんはともかく、石原良純はまさにコネタ的に登場。
つーかここはスゴクイヤーな地獄なんだけど、白髪混じりの石原良純に出てこられては、「しょうがないね、諦めなね、お母さん」としか言いようがない気分。
その一方、ホテルのような文化施設が体現する「格」の上下ばかりではなく、「ファミレス」のような平均化されたものに潰されそうな大衆食堂の、みょうなデザートを見ながら、あれは実在の食べ物なのか、コネタの食べ物なのか、どっちなんだろうと、思った。



全国上映館一覧 まだ上映館残ってます

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック