光市母子殺害事件判決

いよいよ自分って世間から取り残されているらしいと思い知ったのは、今週の前半、普段見ているブログの幾つかに光市母子殺人事件の判決の件が取り上げられていたからで、久しくテレビというやつを見なくなっていたわたしは、以前この事件の周辺話題(弁護士が弁護士を攻撃)を多少知ってupしていたとはいえ、今月22日が判決の日であることは忘れていた。

それは例えば、職場の人が「世界のナベアツがどうの」と言い出し「え?鍋圧?」と聞き返して軽くシカトされたときに似た焦りを呼び起こしたが、ナベアツならその後YouTubeで沢山見たので、今はかなり知っていると言える。


が、こちらの方はよく分らない。
試しに手近な知人に、この事件について訊いたら、「あの弁護士は酷かったよーーー!!チョウチョ結びがどうのってワケわかんない事ばっかり言ってさ!!あの弁護団ごと死刑になればいいんだよ!!」と、日頃穏和な人柄に似合わない過激な意見だったので驚いた。しかし、この反応は特別なものではないようで、ネットで調べても、多くの人たちが抱いている弁護団と容疑者の元少年への憎しみは、半端ではない。まがりなりにも弁護団なのに、こんな過激な感想を一般人に持たせてしまうとは、一体どうなっているのか。


そんなこんなで、わたしがチェックしたソースはおおむね次のものである。
もしも、わたしなみにテレビを見ていなくて、この事件について分っていない人がいたら、これだけ見るといいかも…(ダメかな…)


☆1.弁護士のため息(弁護士さんのブログ)
☆2.上経由で●光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見BPO(放送倫理・番組向上委員会)による意見書)
☆3.藤井誠二のブログ(ノンフィクションライターのブログ。さっと見る限り被害者サイドに立った視点が中心の模様)
☆4.被害者遺族の記者会見(YouTube)
☆5.光市母子殺害事件(Wikipedia)



この中で特に役立ったのは、☆2のBPOの意見書で、これがその通りならやはりテレビなんか見ないでよかったと思った。
何よりもみなさん忘れていませんか? と思うのは、どんな事件も≪言語化≫によってしかその姿が立ち現れることはない、ということだ。その事件と完全に同じことは決して二度と起きないし、その事件の完璧な証言者になりうる観客は、どこにもいないのだ。

であるから、上記Wikipediaでもわざわざ、(勝手な主観で言っているのではなく)「検察側主張、及びこれまでの判決が認定してきた内容に基づく事件の概要」と断って、次のように説明している。


1999年4月14日の午後2時半頃、当時18歳の少年が山口県光市の社宅アパートに強姦目的で押し入った。排水検査を装って居間に侵入した少年は、女性を引き倒し馬乗りになって強姦しようとしたが、女性の激しい抵抗を受けたため、女性を殺害した上で強姦の目的を遂げようと決意。頸部を圧迫して窒息死させた。

その後少年は女性を屍姦し、傍らで泣きやまない娘を殺意をもって床にたたきつけるなどした上、首にひもを巻きつけて窒息死させた。そして女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。

少年は盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり友達の家に寄るなどしていたが、事件から4日後の4月18日に逮捕された。



この言語化が、事実の再現にもっとも近い妥当なものであるなら、この少年のしたことは到底許せない。また、簡略化された説明で(幼女について)「殺意を持って幼女を床にたたきつけ」「首に紐を巻き、強く引っ張って締めつけ」というのもあり、この言語化のその通りなのだとしたら、到底許せる話ではない。けれど、これはその文の作成者の≪言語化≫の結果としての表現であり、そして言語化は、それを行う人の価値判断なしに行うことは難しい。


確かに、「幼女」と「床」は言語化の過程で動かせない言葉に思う。(生後11ヶ月なら乳児では?とかも思うし、なぜ「幼女」という言葉が選ばれているのかはやや謎ではあるが、それは置くとして)
けれど、「殺意を持って」や「たたきつけ」に至っては、実は違う可能性もある以上、裁判できちんと検証された後に使われるべき表現だ。もしも、裁判での判決が下る前に、事件について語る必要がどうしてあった場合に、「殺意を持って幼女を床にたたきつけ」と表現してしまったら、それは間違っている。


本当に、「殺意を持って」いたのか、あるいは「たたきつけ」たのかは、物的証拠や本人の聞き取りや、本人が「殺意」なる感覚を持つ状況にあったのか、あったとしてそれはいつ芽生えたのか、そもそも殺意とはどのような感覚をさすのか等検証されるべきで、もしも、そういうことをせず、結果だけに基づき「こいつさえいなければ、この親子はこんなひどい目に合わなかった」と速攻で「判決」を決めるなら、裁判はなくていい。いやいっそ、ない方がどれだけスッキリするか。


けれど、そういうわけにはいかず、やはり裁判を行うのは、次の二点のためだろうと考える。

◆1.冤罪を防ぐ
◆2.二度と同じような事件が起きないようにする

1.
無実の罪を着せられ、やってもいないのにやったとされるのは、どう考えても誰でもイヤだろう。たまたまその事件が発生した頃に近くにいたからといって、「あんた犯人、ハイ死刑」なんて事になったら冗談ではない。人権後進国だとありそうな話であるが、絶対にやめてほしい。

2.
その事件が起きた理由が分れば、再発防止ができるかもしれない。何をどうすればいいのか? 制度を変える必要があるなら変える、など。防止できなかったとしても、最低限自分や身内が被害者にならずにすむ方法を思いつくかもしれない。


つまり、どちらも社会の構成員である自分の役に立っているということで、裁判とは、被害者に同情するためでも、加害者を憎むためでもなく、自分のためになっている、ということだ。


☆2のBPOの意見書で印象的だったのは(ここの後半部)マスコミが、今までの被害者軽視報道を反省して方向転換した、というくだり。ついこの前までは、「加害者の処遇に比して極端に不公平な」被害者側への扱いで、もともとの犯罪被害にかてて加えて、マスメディアによる二次被害、三次被害(の報道被害)がもたらされていた。それを考えるとこれは悪くない方向だろう。
わたしも今勝手に告発すると、テレビ局の大好きな細木数子などは、「犯罪の被害者になるのは、前世の悪行のせい」と、テレビで堂々とのたまっていたのだから、マスコミとは本気でマスゴミだと思った。そりゃどんな迷信を持とうが人の勝手であるが、犯罪報道を行うのと同じテレビで流すなと言いたい。ただし、細木に限らず、被害者になるのは「前世のカルマ清算のため」みたいなことを言う宗教は多いように思う。犯罪被害者になることは理不尽すぎることだから、そういう信仰がうまれるのは無理もないとはいえ、理不尽なものは理不尽なのだということを、忘れちゃだめだと思う。

BPOによれば、今までの「被害者軽視」から、今度はいっきに被害者遺族の発言をマスコミは多量に流し、というか、自分の判断も報道方針も持たず、ひたすら遺族に頼りきった報道だったよう。
わたしの場合は、☆4の動画くらいでしか、遺族の発言を見ていないとはいえ、この方の発言で「(死刑にならなかったら)自分が殺す」等は、ごくごく自然な発言だと思うし、まして、この事件は性的な要素もあるため、強い怒りや復讐心を表明しつづけることで、被害者の尊厳を守っているという意味あいもあるように思う。
けれどマスコミは、その結果としてこの方を死刑賛成派の先鋒みたいな役回りにしてはいけないと思う。


☆の資料に欠けているのは、弁護団の出したドラえもんのことや、ちょうちょう結びなどの話しで、そちらはみつからなかった。

なんでも容疑者は


 弁護団は山口地裁の第1審、広島高裁の第2審ともに「十分な事実審理を尽くしてこなかった」、それは「司法の怠慢」だったと指摘し、被告人の幼少時から少年期にかけて、父親から激しい暴力を受けていたこと、同様に暴力を受けた実母が自殺したことなど、問題の多かった生育歴と精神的発達の遅れを強調し、被告の犯行時における心理状況を中心に、さまざまな弁論を展開した。


ということである。
このような境遇にあったものに一片の同情も示さないとは、「加害者軽視の報道被害」から随分と揺れ動いたものだ。
しかし弁護団にしても、同情させるために出したというより、犯罪のベースになった心理やメンタル面の判断材料として出したのだろう。こういう人物が本当に「強姦目的で押し入」(wikipedia)ったりするのか、とか。それにしても、なぜわざわざ子持ちの女性をなのか、やはり、幼子を抱えた女性でなくてはならなかったのだろうか、それはなぜだろうか、とか。
と、このように加害者側の方が、今現在も生きている関係上、いろいろと考えてもらえる、という意味では、確かに被害者に比べて不公平ではある。
これらはあくまでも◆1.冤罪を防ぐ◆2.二度と同じような事件が起きないようにする、という目的のためなのだ。


「父親から激しい暴力を受け」「同様に暴力を受けた実母が自殺」は、痛ましい話しであるが、このような家庭はものすごく珍しい、というわけではないと思われる。また、自殺まではしなくても、母親の家出や、母親も暴力をふるう等に至っては、さらに多くの家庭で起きていると思われる。けれど、それらの数の多さに比べて、ここまで非道な事件は他にはそうそうはおきていない。
これは、どう考えればいいのだろうか。
他の家庭の場合は、もっとありふれた犯罪に走っているのか、そもそも犯罪自体犯してはいないのか、逸脱は家庭内のような密室や、自分に向かって起きているのか。


■みなでいっせいに叩くことで、同様犯罪を抑止するか?

と思ったけど、関係ないと思う。
「みな」と言っても、それはテレビでしかない。テレビを見ないなら影響はない。
第一、そんな抑止に頼ってはダメだろう?



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ところで、≪言語化≫における価値判断についてもう少し書きたい。
事実を、つまり、あったことを、その場にいなかった第三者に通じるように言葉にすることはかなり難しい。
わたしなどは、あったことや起きたことを言語化して看護記録に書き記す機会が多いが、正確に書こうとすればするほど、何が起きたのか、何が言いたいのか分らない文章になる。そこを、伝える・伝わることだけに主眼を置くとなると、自分の価値判断を下して書くしかない。たとえば、「スタッフに対し暴言発言あり」などだ。
このわずかな文章に、どれくらい多くの価値判断が下されているか、そしてどれくらい小心者の怯えを含まずにいられないか、自分でも笑ってしまうほどだ。まず、それを「暴言」と規定した価値判断であるが、他の人が聞いていたら暴言とは受け取らないかもしれない。まして本人にしてみれば正当な主張のつもりかもしれない。だからといって、読み手に判断を委ねようと、ごく中立的に相手が言ったセリフをそのまま書き写すと、話し言葉はその場の非言語なコミュニケーションの土台の上に発せられているため、意味が通じなくなる。そのくせダラダラ長い文章になってしまい、通常、長く書いた文章ほど、エネルギーを多く注いだということで、重要な情報と受け取られやすいため、さほど重要な情報でないなら簡潔にまとめたい。そんなこんなの価値判断があって「暴言」と言い切り、そこへ「発言」と付けることで自分の感情に囚われず相手の言ったことを客体化している、すなわちわたしって人権にも配慮している良い人ですよーという形にしている、というワケだ。


いかに小心かって話しであるが、こういうブログの文章を書いていても、そのような価値判断は休みなく常にある。それは、レトリックの工夫とか、文の構成というような次元よりもっと細細とある。言ってみれば、だからこそ、人の書いた文章(ブログだろうか紙に書かれたものであろうが)を読めばその人間がかなりのところ、分る。いちいちと自分と同じ支持政党か、自分と同じ九条擁護者か、自分と同じ歌を聴くか、自分と同じ本を読むか、など調べる必要は無い。そういうのはささいな趣味の問題に過ぎない(趣味であるからそれなりに重要ではある)。価値判断はもっと根源的な場所で行われている。これは、価値判断の仕方が好きとか嫌いとか、いいとか悪いとかではなく、現物の、肉体の、リアルのその人とは別に、もうひとつその人が現れる、ということ。


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キャンドルホルダーにかわいい小花を彫刻
W100×H60mm (ろうそくは別)




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