続・秩父よいとこ、一度はおいで。もしくは秩父事件

そういうことで、自分が行く祭りの由来を調べていたら、思わぬ拾いものがたくさんあった。


前回の最後の方は、秩父神社が、というよりも日本中の神社が、明治政府によって、神道と仏教を分離することを強制された歴史を発見してみた。その目的は、神道による日本国統一である。


それでは明治政府とは何なのだと調べてみると(調べたというか囓った;)、どうやら鹿児島の方の薩摩藩と、山口県の長州藩の人がえらい尊皇攘夷に熱心で倒幕、ここの人たちが中心となって打ち立てた政府であり、こういっちゃ悪いけど神道という中心でもたてないとあまりにも田舎方面の人たちだったので人がついてこなかったのかも・・・

といった信憑性の高い仮説はおいておくとして、大いに注目したい発見が「秩父事件」だ。


この事件は、1884年(明治17年) 10月31日から11月9日の10日に渡って起きた。
当時養蚕業で栄え、さらなる発展のために設備投資など行い産業として生き生きやっていた秩父の人たちを襲ったリヨン生糸取引所の価格の暴落、及び「松方デフレ」。
彼らの生活はどん底へ向けてたたき落とされていった。そこへ追い打ちをかける悪徳高利貸しの暴利。幾多の嘆願を時の政府に行うも取り合って貰えず。さらに当時政府は民権運動に対する弾圧政策を強化していた。
秩父事件に限らず「激化事件」は日本各地で起きて(参照:激化事件一覧)いたため、ますますと弾圧を強める明治政府。
そんな中、いよいよ租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を(非暴力で)政府に訴えるため「困民党」をたちあげ蜂起したのが、秩父事件だ。
困民党員は11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄し、さらにすすんでいくはずであったが、東京鎮台(陸軍の一単位)に制圧されてしまった。
そしてリーダーたち7人(*1)が死刑、そのほか大勢が処罰された。



なんとも、大変に名誉な事件ではないだろうか。

日本に、いや、自分が住んでいる埼玉にこんな勇士たちがいたなんて。

しかし道理で、埼玉って必要以上に微妙な扱いを受けている気がしていたけど、そういう要因があったのか? と、合点がいく気がした。

実際事件後も、「お上」に逆らった暴徒・暴動というそしりとの戦いであったらしく、秩父困民党副総理・加藤織平の墓には無数の石が投げつけられた跡があるそうだ。(参照


それでも現在では「秩父困民党無名戦士の墓」という名の立派な石碑が、秩父市の音楽寺という寺の隅に建っているそうで、ネット上にはたくさん画像がアップされている。音楽寺は、困民党が大宮郷へ向けて出陣する際、その鐘を打ち鳴らして出発したというゆかりの寺だ。


石碑に刻まれた文字も、

「われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを拒否しない」

と、えっらいかっこいい。
ちなみに、石碑の裏に何が書いてあるかは、興味深いレポートを多数アップされている「類聚メモ帳:So-netブログ」の一記事、「秩父地方に行ってきた3(音楽寺の秩父困民党碑)」を見てわかった。それに、この石碑がいつ建てられたのかという謎も解けた。
「一九七八年十一月二日 建立 秩父困民党決起百年記念会事業委員会」。
ごく最近なのがわかる。あえて西暦で表記した意地も意味深だ。


秩父困民党の墓

その一方、わたしの胸に去来するある疑惑もあった。

前回も書いた通り、秩父神社がまつる第四の神、秩父宮の存在だ。


日本中いくらでも地名はあるのに、秩父事件から38年後の1922年に秩父と名の付く宮家を創設したのは、秩父(もしくは埼玉)が願ってのことか、他の理由かはともかく、反逆の不名誉を回復する役割を担ったのだろうと、推理できる。
そう推測したのは、秩父宮の后である雍仁親王妃勢津子(やすひとしんのうひ せつこ)の項目をwikipediaで見たからだ。曰く、勢津子旧名松平節子は、<「逆賊」「朝敵」の領袖である松平容保の孫にあたる人物であり、その皇室への入輿は、旧会津藩の士族の復権に繋がるものだった>と、あるのである。


つまり、その地方で何か「朝敵」っぽいことが起きた、あるいは、反逆的、反国家的な事が起きたとしても、天皇家との関わり方次第でチャラになる仕組みがある。ということかと。

秩父にもそれが適用された可能性がある。


もしもそうなら、それってどうなんなんだろう。
「よかった」のかもしれない。

そうも言えるが、「よかった」と受け入れれば、秩父困民党の反逆のこころざしを不名誉な汚点と認めたことになる。


おりしも今年のNHK大河ドラマは、戊辰戦争で女だてらに銃を持ち官軍と戦った女性を主役にしている。
この女性八重も朝敵サイドであるわけだが、のちには(秩父宮と勢津子が結婚した年と同年)昭和天皇から銀杯を賜る、という名誉の回復をしている。

昨年秋、会津若松市観光公社は、「京都守護職拝命150年と新島八重」展というのを開いている。(その記事→福島民報
会津若松市観光公社の開催意図がそうなのかは不明だが、少なくとも福島民法が言わんとしていることは、会津若松は朝敵ではなかった、藩主松平容保は孝明天皇の篤い信頼を得ていたのだから、と。

21世紀になってなお、朝敵ではないことを、主張しないではいられないのだ。

けどそれも変な話しだ。江戸時代の終わりには、佐幕派(朝敵)は珍しくなくて、日本中にいた。(→佐幕 - Wikipedia

もしも今の時代に戊辰戦争が始まったら、いったいどれくらいが、佐幕派になるんだろう?
あまりいない気がする。ってかほとんど。

大きな理由は、「よかった」と思わせる歴史観、言論・言説が、強い力をもち、なおかつ大勢を占め、再生産され続けているから。

明治時代以降、「八紘一宇」とかいってアジアに日本の支配を広げていった「大日本帝国」。
けど、それは結局うまくいかなかった。

その代わりに、メディアを通じて、表現・言論活動で、なるべくそうとは気付かないように、日本国内をひとつのものに、すなわち帝国化していった。


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック