リーダーの値打ち 日本ではなぜバカだけが出世するのか?

「カリスマ・ブロガー」による上梓、タイトルにつられ購読。
読んでいて、大まかな感想のウェーブはみっつやって来た。


☆1.「はじめに」から前半部まで→山本氏って頭いいんだなぁ。まるっとするっと全部お見通しなんだなぁ

☆2.自身の関わるコンテンツ業界の話しあたりまで→バケツの水をひっくり返すが如く思っていることを全部ぶちまけたんだなあ。随分といろいろと溜まっていたんだなあ

☆3.そのあと→これはこの世代の、血のにじむタマシイの叫びかもしれないなぁ。ホントにもう年配者は真剣に考えた方がいいよ…

具体的には、「前任者の否定ができない日本」という章がある。そこを読んでわたしは思った。

「前任者」はすでにして十分に、給与面でも待遇面でも名誉面(そこまで尊重されているのだから)でも報酬は得ているはずだ。遠慮無くどんどんと否定すればいいのである。また、前任者も、みずからそのモードに入らないといけない。わたしは前任者の年下妻の年代(だいたいw)になるが、おおいにやってもらって結構。いや、やっちゃってください。

え?ダメ?(きょろきょろと回りの奥さんを見渡し)
いいでしょ? こういう時を見越して貯金もしたし家も買ったんだから、ねえ?
リストラとかされるのは辛いけど、そこまでは本書、言ってないような気がする。それに、譲るものを譲らないとリストラ以前に共倒れ。

そこんとこ、よーーく考えてほしい。

考えるだけではなく、その思い、はき出せるのが一番よいと思われる。

本書も、大いに腹の中をはき出した本だ。
腹の中をはき出すことが、一番よいのだ。

それをしないから、している人が憎らしくて結局足を引っ張ることになる。
上手に出している人は結果的にリーダーになれそうな人物であるから、つまり結局リーダーに協力しない、リーダーについて行こうとしない、ということになる。

どうして出さないのかというと、何か言ったらバカにされた経験があるとか、否定されたとか、期待に反して受けなかったとか、誰にも理解されなかったとか、空気読めと言われたとかみんなの態度が冷たくなったとか、そんな負の記憶が影響しているのだと思う。

あるいは自分の言うことは価値がない、といった思い込みとかだ。日本は長く東大を頂点とする学歴社会だったので、より上位の人が言う意見しか価値がない(と、思い込む人が多かった)、その名残りかもしれない。そういう価値観でない環境に育った人なら自己表出を妨げられる頻度は少ないだろうが、そうでないと、モロにかぶったかもしれない。


→とここで、今現在の日本の学歴社会がどうなったか調べたら出てきたページ…
1☆人工知能開発の目標が「東大合格?」というプロジェクトへの違和感

2☆そのプロジェクトについて分かるページ■森山和道の「ヒトと機械の境界面」■NII、「人工頭脳プロジェクト」キックオフシンポジウムレポート ~ロボットは東大に入れるか

1☆で筆者氏は、<2021年にもなって東大がこんな入試(理系も含めて「答えのある」高級パズル)を続けていたら、それこそ国際競争の中で沈没してしまうでしょう。そもそも、こうした「大学入試ペーパーテスト一発勝負」というのが、日本国外では意味がほとんどないのですから>と、プロジェクトの内容以前に、大学入試ペーパーテスト自体を批判している。
さらには、<ロボットを「人間に似せて」作ったりすること自体が、かなりの程度で「日本ローカル」のカルチャーであるように、AIに人間の脳の真似をさせようと躍起になるというのも、世界的に見ればそんなに注目されるものでもないのかもしれません。>…


日本人がどうしてもやってしまう日本ローカルセンスによる特異なコンテンツ制作については、山本氏も一章を割いている。第5章「マネジメント能力のアジャストと成長セクターのジレンマ」だ。今まで「ジャパンファースト」でやってきたけれど、それも尻つぼみ、もしくはパイが小さい。(その一方「ジャパンファースト」もごく一部の『勝ち組』的には存続する。) 今後は「海外市場で受けるツボを探せ」となるが、このツボが海外と日本では違いすぎる。さあどうする?

ここらへん、世界では日本のカルチャーが結構受けてるみたいだから安泰なのかと思ってたら、やっぱそう甘くは無いのだなと思った。

本書はタイトルを裏切ることなく、日本ではなぜバカばかりがリーダーになるのか、あちこちの角度から説明し尽くしている。どうすればいいという、答えは無い。というか、どうすればいいのかはかなり明晰に判明しているのであるが重りでものっかったように止まっている現状を報告している。

打開のヒントはコミュニケーションにあることが控え目ながら示唆される(と解釈した)。
わたしはこれにはまったく同意する。
コミュニケーションというとどうしても「理解し合う」ことが最終着地点のように思われがちだ。ウィキペディアにも「コミュニケーションの男女差」だの「コミュニケーションの難しさ」だのという章があり、難しく考えるのが先にくる。

が、そんな理屈などは学者でもない限りどうでも良いのだ。
相手のことなど理解しないでいいのである。どこまでも交わらない平行線でいいのである。
もっともっとチャランポランでいいのである。

相手の言っていることを無心(なきもち)で聞く気さえあれば。

年長者その他が偉そうに滔々と喋り、自分ばかりが正しいと言わんばかりになるのも見苦しいものである。

が、喋り出したものはしょうが無いので、構わず自己表出した方が良い。
相手が何か言っている内容や言葉使いや声のトーンが触媒になって、意外な何かが自分の中から出てくるかもしれない。そのためにも、先入観なく無心になって聞ければそれに越したことは無い。

また、なかなかそれが上手くいかないときは、カーテンの色を変えるとか机の並びを変えるとか、外からコミュニケーション条件を変えるという手もあるかなと思う。本書でも著者が皆と同じ大部屋で仕事することにした顛末が語られている。

政治のリーダーと経営のリーダーを同一視、もしくは相似形としてとらえるのには疑問をもったが、細かいことは脇に置く。
批判する一方ではなく、最後のほうはすくすくと育んでいる自身の夢が語られている。

人が夢をもち語るとき、よほど自分の利害に反しない限り、その人の夢には実現する方向でエールを送りたい。


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