遠い山なみの光 / カズオ・イシグロ

(展開を明かしているのでこれから読む人は読まないでください!)


水曜日、A駅に行った折り、本屋どりーむずで買った一冊。



思えばこの半年の間に買った本と言えば、『福島原発の真実』(著者:佐藤栄佐久 当ブログにレビュウあり)、『報道災害』(著者:上杉隆&烏賀陽弘道 半分しか読んでいないためレビュウ未)、『原発報道とメディア』(著者:武田徹 半分くらいは読んだ気がするもレビュウ未)、『官僚の責任』(著者:古賀茂明 出てくる人間出てくる人間(菅直人と官僚)、出てくる出来事出てくる出来事がみんなドッと疲れるため33ページ目にして挫折している。レビュウ未)

と、すべて原発事故がらみなのである。
もちろん、原発事故がらみの著書はまだまだたくさんあり、どれにしようか迷うところではあるが、比較的価格の安いもの、そして自分の文章としてリサイクルできそうなものを選んでいる。

のであるが、ちょっと疲れてきた。
まだまだ何も収束していないことを思うと疲れている場合ではないとはいえ、あまりにも光明の見えない話しだし、赤の他人を責めずに済まされない話しだからである。
上記の本がなかなかに読み進まないのに比べこの本は、水曜に買って休みの翌日午前中に読み始め、午後の三時には読み終わっていた。


そして、なんて小説とはよいものだろうかと、つくづく思った。
いかに書かれたその世界が不可解で薄い哀しみに包まれていようと(本当に『遠い山なみの光』はそんな感じ)、そこには書き進めた人の意志がある。
書き進めた人は、現実の苦しさ・厳しさから目をそらさずに、ある方法理論に基づいて--生きている人間ならではのエネルギーをもって--、他人に供した。言うなれば、そのコックでなくては作れない妙なる風味の料理を食べさせてくれた。

ところが原発事故関連の本はどれも食えない話しばかり。
食えないとか食えると言うこと自体が「不謹慎」なくらい食えない話しばかりだ。
しかし、この食えない話しはおそらく、まだまだまだまだ当分続くし、いつまでたっても食える料理にはならないだろう。体力と知力の続く限り、食らい続けるしかない話しなのである。


ただ、ちょっと奇遇だったのは、『遠い山なみの光』の舞台は、戦後間もない頃の長崎である点だ。
具体的には、「朝鮮戦争」の最中とあるので、1950年から1953年の間のどれかの夏、だ。
その頃の長崎は「最悪の時期」を過ぎて、復興に向けて活気を呈しはじめていた。
小説は「わたし」である悦子の、その夏の数週間を描くが、その間の悦子は妊娠三ヶ月から四ヶ月の身。
一方それから何十年も経過した現在の悦子も描かれ、いわば二つの時代を行ったり来たりする構成なのであるが、現在の方では、当時お腹にいた赤ん坊(のちの「景子」)は自殺してもうこの世にいない。

言ってみれば、過去も現在も景子は不在であり、過去の数週間の出来事を読む間は将来自殺すると分かっている赤ん坊の事を意識させられる。


これだけでもイシグロがどんなに下品な作家か分かるだろう。事実、この小説をどんどんと読む衝動がなぜ途絶えないかと言えば、女性週刊誌のゴシップ記事--誰と誰が離婚した、結婚した、不倫した---などを読まずにいられない好奇心とほとんど同じなのではないかと疑う。
(といっても、そのつもりで期待するとまた違うかもしれない)


悦子はどうやら元夫(婚約者?)を原爆によって亡くしている。
当時はそんな人が大勢いた。藤原さんなどは、四人いた子どものうち三人を原爆で亡くした。それでも「前向きに未来を見て」生きると決めているから、元は裕福な家庭の婦人だけど、今はうどんやを営みながら明るく前向きに生きている。当時の若い夫婦は妊娠中だろうと墓参りに行って手を合わせる風景がよくあったけれど、藤原さんに言わせれば妊婦が墓参りなどしてはいけない。死んだ人のことなどくよくよ思い悩んでいても仕方がない。親友の娘の悦子にもそう言ってきかせる。その通り悦子は、とても前向きに生きていて、亡くなった元夫のことなどいつまでも思い悩むことはなく、新しい家庭も手に入れた。そして佐知子という女と親しくなり、前向きだからなのか他の理由からなのか、佐知子の子どもを気にかける。それが親切心なのか、当時なら誰でも持っていた子どもへの関心なのかよく分からないけれど、その子(万里子)の面倒を見る。

ほとんどお節介であり、当の万里子にはほぼ不気味がられているのであるが、読めば読むほどに確かに「わたし」が一番不可解で不気味な人に思えて、いくつのかの場面ではドキドキ鼓動がしてきたほどだ。が、そんなトリックめいたものをことさら書き立てて評論家にバカにされるほど抜けてる作家ではないので、さりげない抑制がきいている。

それにしても悦子も長崎にいた。悦子はどれくらい「被曝」したのだろう。そのことと景子の死に何か関係があるのだろうか。いや、どうも「異文化で生きる困難」がよりテーマのようであるから(佐知子と悦子のもっとも白熱した会話中に感じるのである)、それは無関係だと思いたい。が、どうにも深読みしてしまう気持ちがわいて困った。ただ、どっちにしろ、上流家庭のご婦人のような慎みも忘れない作者であるから、よく分からないのだ。


アマゾンカスタマーレビューの「評価の高くない」方の感想を見たら、「女としての思いと、母としての思いに引き裂かれる女性の物語」という評を見てなるほどと思った。そう言われればそうも言えるだろう。母母母母言うが、おまえどれくらい母なのだ。母という幻想に母のくせに振り回され、結局母だったことなんかないじゃないか。母とは遠い山なみの光のようなものだ。

穏やかにまとまっているようですべてが残酷で悲しく感じるのは、作者のせいというよりも、もう時代が、現実がそれ以上に残酷だったからだ。

日本の、長崎の、原爆を落とされた現実に、ひとつの形を与え光をあて影を描いた。
原爆の衝撃は緩衝され、受け止められる形になった。
どんな気弱な人でも読める形になった。

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