ブログ時評☆21世紀に長文を読ませるにはっ

ひさしぶりの、ブログ☆時評。

あらかじめいっとくけど評とは、あくまでその人の主観(に、決まっている)なので、シャーレに浮かぶひとつのサンプルケース、もしくは街頭で集めたアンケート用紙の束から、無作為に抜き取った一枚に過ぎないものである。人は誰も、その無作為の一枚が黄金並に輝いていろと熱望するが、果たしてどうなるだろうか…
本屋、この魅力的なるプレース三千六百万文字の閑道

>長い文章をインターネットで配布するのは難しいです
>長文を配信するために最も適したフォーマットは書籍です。

ということだけど、これはちょっと単純化しすぎていると思う。
たとえば19世紀の作家マルセル・プルーストの大々々々々長文の『失われた時を求めて』が、なぜ今日まで読まれ続けているのか?
それは、なにも紙に書かれているからではない。

「プルーストの『失われた時を求めて』、読んだかよ? すげーぜ。哲学的な時間論をモチーフにしているぜ、哲学的な議論のきっかけになるぜ、すげーぜすげーぜ」と、各時代の作家、評論家、識者、薀蓄屋、自慢屋、知りたがり屋、小説愛好家、読書家等々に、読まれ、語られ、すごいすごいと言われ続けているからである。
元祖口コミといってしまえば早い。
それがひょっこりと今の時代にポッと現れたとして、そんな長い、面白いともすごいとも誰も保証していない小説を、誰が読み「始める」だろうか?

プルーストの大々々々々長文『失われた時を求めて』には、長い時間の経過とともに、読まれ続け語られ続けてきた、ヒトの営みの蓄積としての、膨大な口コミ効果があり、「○○がすごいと言っていたなら間違いない。自分も読もう」「文学の最高傑作なら、読んでおこう」などなど思わせる。


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ことは何も、こんな名著に限らない。
一冊の本が出版されるにあたって、どれほどの人の手がかかっているか、考えてみてほしい。少なくとも、出版される前に、編集者一名は読んでいるはずだ。そしてあーだこーだと、意見をし、漢字を間違えているとか、こういう表現はヤバイから変えた方がいいとか、展開が予測できて面白くないとか、いろいろ言っている。でもってその編集者は出版社の入社試験に受かった人物であり、出版社から給料をもらっている。内実はともかく出版社という企業の意向をくんだ者である。そしてその本を出すことに関しては、内容がいかなるものであれ、出版社はその片棒を担いでいる。

その象徴的な例が嶋中事件のようなもので、書いた作者ではなく、出版社の社長の家などが襲撃される。

また、作家の登竜門である新人賞であるが、あれなどは「下読み」の人がまず最初に読む。下読み仕事では、どんな一行目からヘタッピーーな作品であろうと、応募作品なら必ず、最初から最後まで読み通すことになっているそうだ。それだけでとんでもない労苦で大変だと思うが、ともかく読み通すのが仕事だ。そしてその中から何作品かを選び、編集者(だと思う)の選考に回す。編集者はその中からさらに選び、選考委員(たいがい作家や評論家)にしぼりにしぼったやつを選んでもらう、という。

これだけでも、どれだけ多くの人間の、脳内を、理解力を、感情を、身体感覚を通過しているかって話である。

そういった、通過に通過を経ている、という信頼があるからこそ、一般読者は、最低限の損はしなというお墨付きを得て安心して本を読めるのだ。

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ところが、ネットの長文(特に小説)と来た日には、そういう安心がミジンもない。
ぶっちゃけまくった話、コトリコ氏の当該の長文もわたしは読んでいない。
ぱっと斜めに目を走らせた印象としては、ラノベかな? と思った。
そこからしてアナウンスされていないので、分からないのであるが、キャラ名が非常に目立つことからして、江戸川乱歩賞とか直木賞とか芥川賞のセンにのるような本格派の小説というよりは、もう少し軽い小説なのかな、という感じは、読まないでも感じる。
(もっとも、それとても実はちゃんと読まないと分からないのであるが)

安心がミジンもない上に、ラノベに興味のないわたしが読むはずがないのであるし、読まなかったからと言って、誰に責められるイワレもないのだから、読まないのも無理はないと言わざるを得ない。

そこらへんの障害を打破する方法論としていくつか考えられるのは、以下のものである

1:ラノベならラノベとまずカテゴライズしアナウンスする
2:各キャラクターのイラストや写真(ビジュアルなイメージ)を入れる

である。これにより、安心感(読むための精神的土台)は、かなり確保できたといえる。その他、

3:美少女キャラを入れる
4:Hシーンを入れる
5:作者自身が登場する(写真つき)
6:ライフハックが入る

が考えられる。いわゆる商業主義的ともいえる戦略であるが、楽しんでやれるならそれもいい。が、そこまではちょっとなー自分はあくまでテキスト勝負の人間、という場合もある。
そんな場合でも、2のキャラクターのイラストくらい入るのは、昔からの常道なので、テキストの一部とすらいえるので、やった方がいいのはいいのである。

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以上はラノベの場合である。
ラノベではなく、長文小説を読ませたい場合について考える。

1:誰でもいい、誰かに、100円から1000円(~2,3000円)のお金を払って、読んでもらう。

つまり、上の上の段落で述べた「編集者」を買うのである。
編集者は、買われた身であるから、あまりぼろ糞にけなしてはならない。
単に、面白くなかったら、そのままお金をもらっておき、もしも面白かったら、その度合いに応じて、半分とか、全額とか返せばいい。

どうだろうか?
NICE IDIAではなかろうか。
あまりにもナイスすぎて、今頭がクラクラしているくらいなのだが…

思えば、404ブログノットファウンド氏などは、献本してもらって書評しているようであるが、あれなどは、本の値段を受け取っているようなものと考えれば、構想としては同じである。(それ以上の労力っぽいが)

「さあ、全国の、読まれたがりの長文屋さん、この指止まれ。
読んでやるから、お金くれーーい!!」

という人も、そのうちあらわれるのではなかろうか。
うんうん、そんな気が、ものすごく、する!!

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※注釈:もっともこの小説、一行読んだら虜になるほどすごい小説かもしれないので、今の時代にポッと出てきても読まれるかもしれないので、ここらへんは何ともいえない。あいにくわたしはいづれ読みたい読みたいと思いつつ手付かずなので、確信はもてない。

※もしも、当方に依頼希望の方は、sukimablue★yahoo.co.jp までぜひどうぞ。
あまりにも長すぎる場合快諾はできかねますが、暇な誰かを紹介できるかもしれません。


あまりにも高額の10万とか100万で読んでくれ、というご依頼の場合快諾しかねますが、稼ぎが少ない割に高級タバコを吸っている誰かを紹介できるかもしれません。


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