2009年02月12日

インテリアに統一性ってなくてもいいのでは? もしくは「和」について

☆オススメサイト1:インテリア事例
☆2:desireto inspire(英語)
☆3:アパートメントセラピー(英語)

オススメサイト1からのリンクで知ったアパートメントセラピーは、豊富なインテリア事例写真をたくさん掲載しているばかりでなく、「Smallest Coolest Apartment Contest」なるコンテストを行い、全米各地から「もっとも小さくてもっともクールな部屋」のエントリを募っている。これがまた、本当に小さな、ささやかな、つまりは狭苦しいアパートを、狭さや貧しさを出来るだけ感じさせずに、創意工夫とセンスで格好よいインテリアに仕立てているのだ。
この中には、自分の部屋を合理的で快適で楽しい部屋にするためのエッセンスがたくさんつまっている。

と同時に、そうは問屋が卸さない現実も見えて来るので、特に「日本」という国との絡みで考えてみる。

01_small.jpg
↑インテリアをどうするか考える時に、北欧風かアジアンかポップかアンティークかカントリーかパリのアパルトマン風か、などなどと考えたり決めたりする必要はないのじゃないか、と閃いた一枚。
気に入った椅子があったら何調であろうと並べてしまっていいのではないか。と思わせるこの気ままな感覚が自由でいい。
第一、いろんな椅子の、いろんな座り心地を試してみたいではないか?

14_small.jpg
1枚目写真よりも価格帯は高そうだし、センスが全体に高度な感じはするものの、似た感想を持った一枚。

上記2枚は、それぞれスライドショー形式で他の写真も見ることが出来る。
他にも「アパートメントセラピー」には山のようにインテリアの写真があって、まだとうてい全部は見切れていないながら、現段階でいくつかの発見があった。

1:長めのソファを、大きな窓を背にして置くとサマになる
2:日本でいう「食器棚」に該当するものは、見当たらない
3:壁には、鬼の仇のように額縁の絵、もしくは写真が飾ってある
4:部屋のどこかにシンメトリーなエリアが作ってある
5:椅子。彼らのインテリアは、椅子に始まり椅子に終る。なによりもまず椅子

つまるところ、345をやっていればアチラ風になる、という感じだ。

「自分はアチラ風になどならなくていい」という考えもあるかもしれない。

当然だ。それでなくても、家の中でも靴をはいたままのアチラと、ぜったいに脱ぐ習慣の日本では、もとから根本が違いすぎる。にも関わらずすでに「和の室内様式」を相当に捨ててしまっているワレワレの暮らしの中では、やはり「椅子」を使わざるを得ないし、椅子を使えばどうしても「アチラ」的な様式も採用しなくてはならず、かといって、現段階ではそれがこなれきれていない。

「和洋折衷ってことでいいじゃないか」という考えもあるかと思う。
たぶん普通にしていれば、多くの人の暮らしが自然と和洋折衷だ。
けれどその和洋折衷は、「畳の部屋では和服を着てお座布団の上で緑茶をすすり、洋間では椅子に座ってお紅茶をすする」という形で区分けされているというよりも、畳の部屋なのに無理に椅子や机を置いたり、洋間(畳じゃない部屋)なのに、ソファや椅子には座らず、フカフカラグの上でゴロゴロ寝そべる、といった感じのソレかと思う。
後者の場合、ソファがちゃんとあっても、ソファの前にずるずると滑って、だらーーんとゴロリンコとなるのが気持ちいいのだ。
わたしの家には現在「ソファ」はないが以前はソファを置いていた。ソファのある暮らしに憧れていたからだ。ところが、だんだん邪魔で仕方なくなり、「これさえなければ部屋がもっと広く使えるのに」と考え出して、ガマンならず捨ててしまった。1万円程度の安いソファだったとはいえ、いかにも無駄な成り行きだった。

「アパートメントセラピー」の写真を見る限り、アチラの人間は、どんなに狭い部屋だろうとソファを置いている。どんなに狭い部屋でもベッドを置いているのと同様に。ソファがあって、ダイニングチェアがあって、机の前にも椅子があって、それだけあれば十分だろう、と思うのに他にも色々な椅子が何脚も置いてあったりするのだから、尻が何個あるんだ、というか椅子フェチとしか思えない。ゲスト用なのかもしれないが、多分やはり椅子が好きなんだろう。室内でも靴を履く人たちだから、日本人のように地ベタに座ったり寝転がることができず、椅子にこだわるのは当然かもしれないが。

eye_exam.jpg
↑そんなに椅子が好きかって感じの視力検査風アート


思えば人間って意外と平等なのかもと思うのは、どんなお金持ちも、どんな高名な人物も、椅子一脚分しかスペースを占有しない。尻を二つ持っている人はまずいない。あとはその椅子の値段が高いか安いかの違いだ。
椅子のお値段に違いがあろうとも、椅子の機能はおおむね同じだ。椅子はその人の肉体を置く。椅子はその人が今そこに居なくても居る、ということの証明であり保証であり、その人がそこにいる権利であり主張だ。

「そこへいくと日本って畳じゃない? 畳って、何人でも居ようと思えば居れるわけで、なんとなくスミッコの方に一人黙って座っていることもできるし、あと、葬式の後の親戚の集まりみたいに、ものすごく大勢が一緒にゴチャゴチャ居ることもできて、欧米に比べたら<ひとりひとり、別個の個人>ってもんがないよね」

と、発見したばかりなので幾分興奮ぎみに語って聞かせると、子どもが、

「なるほど。確かに、椅子取りゲームというのはあっても、座布団取りゲームというのはないね」

と、ナイスなリアクションを返してくれたので、すっかり嬉しくなった。

「そうそう、座布団取りゲームで負けても畳だから別に座れるしね。椅子取りゲームに負けたらずっと突っ立ってなくてはならないんだから、大変だヨ。
それで思ったけどたぶん、日本人って、いつも祈っているんだよ。だって、イスラム教徒がアラーの神に祈るときって、特別なカーペットを地べたに敷いてその上だし、タイの仏教徒だって、お坊さんは寺院の床に座っているよね? 地ベタって、偉そうにしていない、という意味になるし、畳は個にこだわらず宇宙に開かれる、っていう意味があるんだよ」

これには我が子、あまり同意はせず、「そうかなー」と考え込んだが、わたしは構わず続ける。

「そういえばさ、この前の辰巳さんの本のリビングルームは、ソファはなくて大きな一人用藤椅子を何個も置いていたでしょ?
大きな藤の椅子だから、あぐらかいたり、正座したりと椅子の上で日本的なポーズを取れるんだヨ。けど、フロアにゴロリと寝そべるようなことは許さないって決意が感じられたよね。敷物をまったく敷いていないし。そこらへんよく考えたと思った。けど、欧米みたいにソファでゴロリンともできないから、かなりストイックはストイックな暮らしぶりなんだね」

前々回に紹介した辰巳さんの本は、子どもも見ていたので、そう話してみた。子どもはさすがに主婦と違って、さほど真剣味をもってインテリアを考えているわけではないからリアクションが薄い。辰巳氏風に言うなら、日々の生活と、人生というものを総合的に捉えた「暮らし」について考えているわけではないのだ。ところがわたしは真剣だ。「人生」についても、以前よりもずっと真剣に考えている。


藤はいい意味の和洋折衷になる家具だと思うのは、ラタン読本のトップの写真にある通り、畳の部屋とのマッチングがいい点。おもな産地はインドネシアなどの熱帯で、その生育の早さから、地球環境にも良いとのことだから、使っていて変なストレスが少なくてすみそうだ。それに、藤なら欧米かぶれにならずにすむ、といった意味でも「和」との折り合いが良い。

しかし、それでも。と思う部分があって、折り合いや橋渡しとしてのラタンやバンブーやヒヤシンスなどのアジア素材があったとしても、「椅子で暮らす」日々を率直にみつめたことにはならない。椅子で暮らすには何が必要なのか、それとも別に必要ではなく、食事用の椅子、作業用の椅子と、その時々の要を満たし、あとは椅子に用はないから敷物の上に寝転んでいればいいのか。

ここらへんに興味がわいてそれでは日本以外のアジア人は椅子で暮らしているのか調べてみた。
中国は古くから椅子の暮らし、日本や韓国は非椅子の地ベタ暮らし。タイやベトナム、インドなどはどうだろうか。ちょっと分らない。たぶん、買えるぶんだけは椅子で、家族内で地位の高い順から椅子を使うのではなかろうか?

そんなこんなを調べていたら、「畳文化」と「椅子文化」に、こんな記述をみつけた。

「欧米に、寝たきり老人はいません。
日本の寝たきり老人は、職員や家族の都合で
寝かせきりにしていたために、
廃用性症候群になってしまった人々です。
さあ、出来るだけ、寝かせきり老人を減らそうではないか!」


時が経って、英国のナーシング・ホームへ行きましたら、
本当に、「寝たきり老人」はいませんでした。

お年寄りは、
亡くなる直前まで、
椅子に座って頂いて(=座らせて)いるんです。

(続きあり)

そ、そうだったのか!!!!
これはやられた。
「欧米に、寝たきり老人はいません。」という話は、昔からよくきく。ワレワレはその呪縛に囚われたかの如く、寝たきり老人にしないために、「離床」ということを熱心に行っている。そしてその結果、座り心地のよくない椅子に長時間座らせることになっているってわけだ。いや、実を言えば、椅子なんぞではなく、この方のブログにもある通り、車椅子に長時間座らせているのだ。

あー今思うのはE・Sさんだな。彼女は家族が買ってくれた車椅子に座っていることが多く、疲れるとかんごふさーーんと叫んでベッドに戻してもらっていて、その車椅子は、そこらでお目にかかれない高額な車椅子だから「やっぱお金持ちだね」なんて感想をもらしていたのだけど、しょせん車椅子は車椅子。布キレ一枚の座面であるから、そうそう座り心地なんかいいわけはないし、背もたれ部分はハイバックで肘掛部分もあるとはいえ、やはりさほど気持ちよく座っていられるものではないのだろう。だからかどうか、あんなにヒステリックに叫ぶのかもしれない。

E・Sさんばかりでなく大勢に関して、座り心地のいいわけではない椅子、もしくは車椅子に長時間座らせている、という現実がある。それでも、今介護系専門の施設なら少しはマシな椅子が採用されているのではないか、という期待も膨らむがどうなんだろうか。何にしろ、イギリスの場合、座り心地の良い、なおかつ刺繍なんか入ったステキな椅子に座って頂いている、ということだ。

これらを参考にするなら、日本も良い椅子を導入する必要がある。
でなければ、もう一度昔なじみの畳みの暮らしに戻ってもらって、畳の上でくつろいでいただく。
しかし後者には現実味がない。畳に座るのは、よほど良い座椅子を使っても体全体の安定性が悪く、腰に負担がくる。ご老人はベッド上でも端座位(ベッド端に腰掛けて座る格好)ではなく、座位(畳の上のように座る)をとりたがるものだが、グラグラとして不安定な上に、骨格全体がひん曲がるようなポーズであり、やめてくれーって感じだ。むろん、食事や服薬のようにチャンとしなくてはならない時は、本人が面倒がっても、その都度端座位になっていただく。

ここまで考えても、本当に座り心地の良い椅子、という物がどんなかその全容はつかめないが、少なくとも、高齢者を寝たきりにしないために座らせておく椅子、というのは、ただ座れればいいというものではなく、座り心地が良くなくてはならない。

それは他者への善意というよりは、自分の現在と未来の暮らしとの相互関係で考えたい事柄だ。

インテリア雑誌や広告の真似をするだけでは、お金がいくらあっても足らないし、自分の暮らしにも体にも馴染まない。
椅子を暮らしの中に使うと決めたのなら、できるだけ座り心地のいい椅子を選び、そしてその椅子を愛し、そこへ座る自分、あるいは家族、もしくは客人を大事にしたい。断言できるが、座り心地の良い椅子でなければそんな椅子愛せない。うちには恐ろしく座り心地の悪い椅子が数脚あるが、腰は痛いわ、尻と背が冷えるわ、稼動部で指を挟むわ。

でもって、このあとは人の勝手であろうけれど、畳の部屋以外のフロアではゴロリとしない、という決断も必要かと思う。19900円の安いソファを今買えるなら、もう少し待って、49900円のもっと座り心地の良いソファを買ったらどうだろう?

って別にわたしは家具屋のまわしものではなく。
どうでもいいが、高級とかワンランク上とか銘打ったインテリアとか家具の広告は鼻持ちならないものがあるので、惑わされないことが肝要かと。同様に、インテリア通販誌の真似をして形だけ同じくしても、すぐにいやになりそうなのだ。

とりあえずわたしには今しばらく時間があるので、高齢者になってから座る椅子を今から物色しようかな。






上記製品の座り心地について当方は保証しません
posted by sukima at 19:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | Review | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
『日々のsukima』のトップページ
http://sukimablue.seesaa.net/
ブログ発行人のタンブラー
http://sukima.tumblr.com/
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/114121455

 

 

icon_pagetop01_10.gifこのページの一番上へ

 

 

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。